塩田平のため池
塩田平は江戸時代に塩田3万石といわれた上田藩の穀倉地帯でありました。しかし、この地域は年間降水量1000ミリ前後という全国でもトップクラスの寡雨(かう)地域のため、塩田平を流れる産川(さんがわ)、尾根川、湯川は流水量が乏しく、塩田平の水田の1割未満しか かんがいできませんでした。このため、古くからため池かんがいによる水田が発達してきました。
ため池数は、個人利用の小池まで数えると近世には200余りありました。これらは拡築されたり新たに構築されたりして、しだいにより大規模な池に統合されてきま したが、昭和50年代の「溜池施設台帳」には東塩田112、富士山5、中塩田13、西塩田10、別所1の141池が登録されています。
塩田平には、平安時代に形成されたとみられている条里(じょうり)地割りが広く残っていました。そのころすでになかりの規模のため池が 開かれていたと推定されますが史料が残っていません。史料に残るのは戦国時代末期~元和8年(1622年)にいたる上田城主真田氏以降で、真田氏時代には、山田池、舌喰池(したくいけ)、小島池(こじまいけ)、甲田池(こうだいけ)などが修増築もしくは新築されました。
上田藩主が仙石氏の元和8年~宝永3年(1706年)に は、戦国の世が遠のき、どの大名も領内の新田開発に力を入れた時代で、仙石氏も用水の開削(かいさく)とともにため池の築造・修築に力をそそぎました。この時代に成立されたと伝えられるものに、手洗池(てあらいけ)、北の入池、上原池、上窪池(かみくぼいけ)、塩野池、山田新池などがあります。
宝永3年に 上田藩主として入封した松平氏は明治維新にまでいたりましたが、松平氏時代のため池対策は、従来のため池の堤塘(ていとう)の高さを増し、貯水量を増大させたことでありました。