どうして塩田にたくさんのため池がつくられたのでしょう。

一年間の雨や雪の量グラフ 塩田平は年間降水量が全国で最も少ない上田の中でも最少の地域でした。しかし、雨量の少ない分晴天の日が多く気温も低すぎず、肥沃な土地で、農業用水を確保できれば水田農業に最適の地域だったのです。そこで農民はため池構造に知恵をしぼりました。この地域の土壌は粘土質だったので、ため池の土地をつくるのに好都合でした。

塩田のため池は、いつごろつくられたのでしょうか?

塩田は「塩田三万石」といわれ、上田藩のやく半分の米がとれる大切な水田地帯でした。そのため、ため池の工事は上田藩をあげて行われました。

江戸時代のため池工事の様子

塩沼という小さな池だったのを、村人が殿様(仙石忠政)に願い出て、元禄12年(1702年)に大きな池にする工事が行われ、塩吹池は東西194メートル、南北212メートルの大きなため池になりました。このような大きな工事の費用は上田藩が出しました。

仕事の種類と働いた人の数(のべ人数)

合計23,617人

工事期間と働いた人の数

工事期間と働いた人の数のグラフ

その他の工事の様子

工事の一日

ほら貝の合図で午前4時に起きて、二番貝で池場に到着。その後はたいこの合図で食事、休憩がありました。元禄3年(1691年)来光寺池修理工事より

なまけた人は

お奉行様(工事責任者)にしかられ、なまけものの印にちょんまげに赤い布や紙をつけられました。それでもなまける人は、一日中座らされ、ご飯を減らされました。安政元年(1854年)手洗池をつくるとき「柳沢誌と伝承」より

ありわさあのかけ声

大勢の人が、「あ、どっこい、ありわさあのよいとこな。」というかけ声に合わせて、"かけや"や"よこち"をふりおろして土手をかためていきました。このかけ声は、苦しい工事を力を出し合ってリズムよくしようとしたのだといわれています。前提書「上田小県誌」より