手洗池(てあらいけ)

名前の由来

イラスト 昔、柳沢村(現上田市古安曽)に幹が6メートルもある大きなけやきの木がありました。ある年の秋、このけやきの木の枝が折れてしまい、村人は何か変わったことが起きるのではないかと心配していました。すると翌年の夏、すさまじい嵐が起こりました。このため山のほとんどの木が風や落雷のために倒れてしまい、村人は途方に暮れました。さらにこの年も大きなけやきの木の枝が折れてしまい、その翌年もまた大荒れに見舞われました。村人たちは、大きなけやきのせいではないかと考えるようになり、どのようにしたらよいか考えていました。

ちょうどその時、木曽義仲に仕えていた手塚太郎金刺光盛という人が、丸子のお城から手塚へ帰る途中、柳沢を通られましたので、相談したところ「けやきを切り倒して御神木にしなさい。」と言われ、近くの池で手を清め、けやきを倒して、御神木としました。こうしてこの池は「手洗池」と名付けられました。

また、一説には、弘法大師が、讃岐(今の香川県)の善通寺より前山寺にみえたとき、小さな水溜まりを見て、「これはきれいな水だ」と言われ手を洗い、この場所にその後ため池を築造したため、「手洗池」と命名されたとも言われています。

イラスト手洗池

手洗池の歴史

昔、柳沢の地籍には年中水の流れている川はなく、米作りはほんのわずかな地域でしか行われていませんでした。このため上田城主に仙石忠政氏が就いた頃、藩の財政再建の策として水田の開発に力を注ぎ、ため池はそのころ(承応3年、1654年)に築造されたと言われています。池の位置は上に小山があるため、大洪水の土石流が直接流れ込まず、集水面積が広く、良質の粘土がその場で調達できる場所を選定したと思われます。

この築造時の監督には、上田藩直属の専任土木技師が就任し、腰に短刀をつけ指揮し、そして怠ける者は髪に赤い布片がつけられ、監視の目が届くようにしたと言われています。人足は上田藩全域に割り当て、毎日数百人もの人が集められ、冬期間の施行でわらじばきの突貫工事で行い、1年ないし2年で完成させたと言われています。その後、増改築を行い現在の姿になっています。

山田池(やまだいけ)

山田池の歴史と民話

山田池 山田池は昭和13年(1938年)に沢山池ができるまで、塩田平一の大きなため池でした。

池の歴史も古く、築造年は不詳ですが、慶安3年(1650年、江戸時代)に、それまで2つ並んでいた池を1つにまとめ現在の池ができました。その工事を行った時に次のような話が残っています。

イラスト 工事前、上田藩のお殿様に設計書を出してお伺いをたてたところ、「こんな大きな池を造ると、もし堤が切れたときに上田の城や街にまで被害が出る恐れがあるから、堤はあと一尺(約30cm)低くしなさい。」と言われました。堤がわずか1尺でも高いと、それによりため池の貯水量は大変多くなります。しかし何かの原因で堤が切れたときには、大量の水が城や街を襲うのです。こうして堤は1尺下げられて山田池ができました。

またこの池では、天保年間(1840年頃、江戸時代)に養鯉を試みたり、上田藩の事業として池畔約3千坪のお薬園と称した薬草の栽培をしていました。

山田池は八木沢と山田の地籍にまたがって造られてます。池の全貌が望める八木沢の字舟窪には、池の守護神として伊勢から勧請したといわれている神明様(天照皇大神宮)が祀られています。

空池(からいけ)

空池の歴史

享保19年5月(1734年、江戸時代)西前山の庄屋児玉伝兵衛は、畑地を水田にし生活を豊かにするため、新しくため池を造る許可を上田藩に願い出ました。

許可が下り、享保21年2月14日から毎日5~600人、延べ10,167名もの人足が周辺の村から動員され池の工事に取り組み、1ヶ月後の3月15日に完成し、翌3月16日に完成届(目録書)が上田藩に差し出されました。

空池 しかし、池の水は思うように溜まらず、元文元年(1736年)4月14日から6日間、約600人の人足をかけ、また年が明けて元文2年には2,240人の人足をかけて池の修繕をしましたが、漏水が多く2~3年後には空池となってしまいました。

現在、公民館と付近の畑が池の跡地で、当時築いた土手の形が残っており当時の姿を偲ばせます。

小島大池(こじまおおいけ)

小島大池の民話

イラスト 元禄2年(1689年、江戸時代)のことです。下之郷山の方からたくさんの猪が駆けてきて田んぼを荒らし始めました。田んぼの稲を守ろうと、一人のお百姓さんが玉の入っていない鉄砲を一発打ったところ、驚いた猪は小島村の大池へ飛び込んでしまい、22匹のうち5匹が溺れて死んでしまいました。

村人はこのことを上田藩のご奉公様へ報告したところ、「大池の東にある長池に猪の死骸を丁寧に埋めて、その上に猪が死んだ理由を書いた木札を立てなさい。」と命じられました。

なぜ猪のためにこれほど大騒ぎになったのかは、当時徳川幕府の将軍綱吉が動物に危害を加えたり、殺したりした者には重い罰を与えるという「生類あわれみの令」を出していたからです。

甲田池(こうだいけ)

甲田池の民話

昔、十人村の甲田池に一匹のカッパが住んでいました。

ある日、村のお百姓さんが池の土手に馬をつないでおいたところ、いたずら好きのカッパは「馬を池に引きずりこんでやれ」と、池の中へ引っぱりました。ところが馬は驚いてカッパを引きずってお百姓さんの家の馬屋に帰りました。お皿の水がなくなって動けなくなったカッパは「助けてくれれば、この家にお祝いごとがある時にはお膳を用意してさしあげます。」と言いました。やさしいお百姓さんはその言葉を信じてカッパを放してあげました。それから、お百姓さんの家にお祭りでたくさんの人が集まる時は、その晩に必ずお客の数だけきれいなお膳が庭先にそろえてありました。

イラスト ところがある時、隣のおばあさんがそのお膳を一つかくしてしまいました。お百姓さんは一生懸命探しましたが見つからず、カッパにお膳を返せませんでした。それ以来、お百姓さんの家にお祝いごとがあってもきれいなお膳は二度と見ることはできませんでした。そしてお膳をかくしたおばあさんの家には不幸が続き、とうとうその家はつぶれてしまったそうです。

上窪池(かみくぼいけ)

上窪池の歴史

上窪池は江戸時代(1645年)に池を改修するまでは「泥池」と呼ばれていました。

昭和32年の新農村建設で、ため池を使って養鯉を計画しました。その先頭に立ったのが上窪池です。これが成功し、塩田平の他のため池にも広がり、昭和50年頃には生産量が1千トンを上回り、「塩田鯉」として全国に名をとどろかせました。

現在、上窪池のほとりにある泥宮の境内に「塩田鯉」と刻まれた石碑が建っています。

甲田池イラスト

舌喰池(したくいけ)

舌喰池の民話

イラスト 舌喰池には悲しい伝説があります。昔この池が造られた頃、土手から水が漏れて、十分に水を溜めることができませんでした。そこで池の改修をするにあたり、土手に「人柱」を入れなければ水が溜まらないという話がどことなく伝わってきました。人柱とは、生きた人を土中に埋めて祈ることです。誰もが真剣に悩んだ結果、くじ引きで決めることになり、村はずれに一人で住んでいる美しい娘さんが人柱に選ばれました。

娘さんは、日夜悲しみに明け暮れていましたが、人柱に立つ前の晩、身の不運を嘆いて舌を食い切り、池に身を投げて死んでしまいました。

このような悲しいできごとがあってから、村人たちはこの池を「舌喰池」と呼ぶようになりました。

舌喰池